昔は大きな道路がなかったので、上山田から灰爪へは、山を越えていきました。
その時に通る『稲場山(向平)』には、昔から天狗が住んでいました。
天狗はいつも、大きな木の枝に腰かけて、ヤツデの葉っぱのような形の扇をあおぎながら、村人たちの暮らしを見守っていたのです。
ある時、村一番の貧乏だけれど、とても正直でまじめな夫婦がいました。
今年は長男にもお嫁さんが決まり、いよいよ一週間後に結婚式を迎えることになっていました。
しかし、結婚式のお客さんをお迎えするのに、貧乏なのでお膳とお椀がありません。
昔は家で結婚式をしていたので、その時に使う食器などは、全部家で用意しておかないといけなかったのです。
夫婦は、一体どうしたらいいのか…、と三日三晩考えましたが、いい案が思い浮かびません。
そうこうしているうちに、結婚式も明日に迫りました。
ふたりは、とにかく天狗さんのところに行ってみようと、恐るおそる稲場山を登りました。
するとなんと、立派なお膳とお椀がきちんと揃えて置いてあったのです!
「天狗さんが、俺たちの願いを聞き届けてくれたんだ。ありがたい、ありがたい」
そう言って、大喜びでお借りして、家へ帰ろうとしました。
その時、空から
「用が済んだら必ず返しなさい」
と声が聞こえました。
夫婦は
「ありがとうございます。きっとお返しに伺います」
と返事をして、急いで家へ帰りました。
そんなことがあって、結婚式も無事に終わり、天狗さんとの約束通り、次の日の朝にはお借りしたものを、そっくりそのままお返ししました。
このようなことが何度となく繰り返され、誰がどんなことをお願いしても、天狗さんとの約束を守りさえすれば、必ず叶えてくれると、村人たちの信仰を集めたのでした。
しかしそのうちに、こころの卑しい人が、天狗さんからの借り物を返さないということがありました。
天狗さんは怒って、それ以降はどんなに丁寧にお願いしても、願いを叶えてやるどころか、品物も貸してくれなくなってしまった、ということです。